中学生広島平和記念式典派遣事業

令和元年 広島平和記念式典へ中学生4名を派遣しました(8月5日~8月7日)

広島市平和記念公園

令和元年8月6日 午前8時開式

参列者約5万人

原爆が投下された8時15分には原爆死没者に哀悼の意を表し、あわせて恒久平和の実現を祈り黙とうを行いました。

平和記念式典に参列した皆さんの感想文をご紹介します

八月六日午前八時十五分その時

 

川東中学校 三浦 蒼生

「地獄だな。こんなにも恐ろしいことが日本で起きたのか。」広島の平和記念式典参加後に訪れた平和記念資料館で感じたことです。

八月六日に平和記念式典に参加させていただきました。そのときはまだ「原爆でたくさんの人が亡くなった。」という認識しかありませんでした。もちろん「亡くなったたくさんの人達が、今は苦しんでいませんように。」という思いもありました。

平和記念資料館にあった原爆の惨状を示す写真や資料は「原爆はこんなにもひどいものだったのか。」と思わされるものでした。中でも3つの展示物が強く印象に残りました。

一つ目は原爆が落ちた直後の広島の写真です。原爆が落ちる前の広島は家々が立ち並び活気あふれる町でした。しかし、原爆が落ちた後は一瞬で全てが破壊され、見る影もないほどでした。普段私たちは人や他の生き物の気配を感じながら生活しています。ですが、私たちがその写真の前に立った時、人はおろか生き物の気配さえ感じられず、不気味な静けさがどこまでも広がっていて恐ろしいと思いました。

二つ目は原爆の絵です。その絵には幽霊のように髪はバサバサで服は裂け皮膚は垂れ下がっている人が声も立てずに黙々と逃げている姿が描かれていました。この絵を見て私は「こんなにも大勢の人が人とは思えない姿で歩いていたのか。これこそが本当の地獄だ。」と思いました。他にも瓦礫の下から助けを求めている人や性別が分からないほどの火傷をしている人、川は水を求めてきたがそこで息絶えた人の遺体で埋めつくされていました。ここにいた人はどれだけ辛く恐ろしい思いをしたのでしょうか。それを考えた時「こんな思いは世界中の誰であろうと二度としてはならない。」と思いました。

三つ目は滋くんの黒こげになった弁当と水筒です。弁当は滋くんがお母さんと初めて収穫した作物が使われていて楽しみに持って行ったものでした。私にとって弁当とは滋くんのように楽しみにしているものです。滋くんにとっては大好きなお母さんに作ってもらった特別なお弁当でした。しかし原爆によってそれを食べられなかったのはとても悲しかっただろうと思います。お母さんは元気で送り出したはずの息子が黒こげになった弁当とともに亡くなっている姿を見たとき、どれほど悲しかったでしょう。

そう考えると、展示されている一つ一つの遺品にはその持ち主やその人の家族や友人の思いが込められていると思いました。その思いは、見る人によって感じ方が変わると思いますが「私はこんなに痛かった、恐かった、悲しかった、辛かった。」そう訴えているように感じました。だから、こんな悲しい思いをしないために戦争も核兵器もこの世界からなくすべきだと強く感じました。

広島に行かせていただき七十四年前に日本で起こった戦争と原爆について知ることができました。原爆で起こったことは知っているつもりでしたが、それはほんの一部だったのだと痛感させられました。私のように、原爆について知っていると思っていても実は知らない人はたくさんいるのではないでしょうか。被爆者の高齢化が進み全国で一年に九千人の人が亡くなっているそうです。近い将来被爆者のいない時代が訪れます。語り部が居なくなることで戦争が引き起こした恐ろしいことが忘れられてしまい、同じことを繰り返してしまう可能性があります。そうしないために私達が原爆の体験を知り、さらに調べ、資料館を訪れてそこで感じたことを他の人に伝えることが私の責務であると思います。

最後になりますが、貴重な体験をさせていただき大変ありがとうございました。平和ということについて深く考えるきっかけを与えてくださいまして深く感謝しております。改めてお礼申し上げます。

 

 

 

平和な世界になるために

川東中学校 酒井 海優

昭和二十年八月六日、午前八時十五分。広島に原爆投下。当時の様子を知っている人は今どのくらいいるのでしょうか。あの日何が起きたのか答えられる人はどのくらいいるのでしょうか。

あの日、あの時、何十万人の尊い命が、たった一つの原爆によって奪われました。生き残ったとしても、全身に火傷を負い、水を求めさまよう人。髪が焼け、顔の皮膚がただれた人。辺りは地獄のような光景が広がり、沢山の人々に大きな悲しみを与えました。

今回私は、平和記念式典に参加し、広島平和記念資料館を訪れました。資料館には、当時の広島の写真や被爆した人の写真、亡くなった方々の遺品などが展示されていました。そこには、戦争が生んだ悲惨な過去の様子がありました。決して忘れてはならないあの日がそこにはありました。

私は今回このような体験をして、戦争の悲惨さを学びました。資料館を訪れ、被爆者の写真や遺品を見たとき、全員が絶望した顔をしており、生きる希望を無くしていました。原爆が沢山の人の笑顔を奪いました。戦争は絶対にしてはいけない。そう強く思いました。

年々、原爆を体験した被爆者は減り、どのような被害があったのかを知る若者は減ってきています。しかし、唯一の被爆国である日本は、原爆の恐ろしさを、平和の尊さを世界に伝えていかなければなりません。そのために私が出来ることは、今回体験したことを多くの人に伝えていくことだと思います。戦争は絶対にしてはいけません。もう二度と八月六日のヒロシマのような日が訪れない平和な世界になるために。

最後に今回このような貴重な体験をさせていただき、ありがとうございました。平和記念式典に参加し、資料館を訪れたことによって、平和への想いをより強めることが出来ました。今度は私が語り部となって平和の大切さを伝えていきたいと思います。重ねてお礼申し上げます。

平和について学んで

村松桜中学校 今井 龍

広島で学んだことや感じたことを今から発表します。

まずは、広島平和記念式典についてお話しします。僕たちは、朝早くから会場に向かったのですが、すでに多くの人が並んでいて、会場の道には、鶴を折るための折り紙の入った用紙や、お供え用の献花などを配る人が多くいました。

式典が始まると、空気が、ガラッと変わりそれまでざわざわとしていた会場が一気にシーンとなり、重々しい空気の中式典が進められました。僕が式典中に驚いたことは、原爆死没者名簿奉納の時のことです。原爆が投下されてから七十四年という長い年月が過ぎているにも関わらず、今年は五千六十八名の方の名前が新たに奉納されました。いまだに多くの原爆によって亡くなられた方の身元が分かっていないという事実や、七十四年経った今でも、身元を判明させ、遺族のもとに返してあげようとしている方々がいらっしゃるということも知りました。

次に、平和記念資料館へ行き、ここでは主に原爆そのものについて学んできました。広島に投下された爆弾は「リトル・ボーイ」と呼ばれ、長さ約三メートル、直径約七十センチメートル、重さ約四トンの爆弾でした。

この資料館で、知ることの出来たことは多くありましたが、中でも一番驚いたことは、原爆投下目標都市に新潟もアメリカの議論の的となっていたということです。軍事工場の多かったことや、物資積み出し港であったことから新潟は、重要な拠点とみなされ目標都市とされました。幸い新潟に原爆が投下されることはありませんでしたが、原爆の模擬爆弾が長岡、柏崎、阿賀の三地点に投下されています。近くに、原爆の脅威があったということを知り、驚きました。もし、この五泉から一番近い阿賀町に原爆が投下されていたとしたら、爆風や熱線などの直接的な被害はなくても、黒い雨が降ったり、放射能の影響を受けたりするなど、何らかの影響を受けていたと思います。

また三日目には、袋町小学校平和資料館へ行き、壁に書かれた伝言板を見てきて、当時の人の家族を必死に探す様子が頭に浮かんでくる様な気がしました。

今回、広島の平和記念式典や、平和記念資料館に行くことが出来て、平和を願う気持ちがいっそう高まりました。五泉市は平成十八年に非核平和都市宣言をしているので、五泉市の皆さんが、平和を願う気持ちが強くなっていけば良いなと思います。そのために僕が出来ることは、まだ原爆や戦争のことを良く知らない同年代や、若い世代の人たちに、話し、戦争や原爆の悲惨さを伝え、過去のあやまちを繰り返さない様にすることだと思います。なので今回の貴重な体験を忘れないようにしたいです。

 

三日間で学んだ事

村松桜中学校 安藤 八姫

八月六日、広島の平和記念式典に参加してきました。ずっと前から原爆の事について興味があり、実際に訪れて、その空気を感じてみたいと思っていたので、多くのことを感じ、そして学んで来る事が出来ました。私が三日間の体験の中で学んだ事は、平和の大切さだけでなく、平和のもろさや難しさでした。

六日に行われた式典の中の話で、安部総理に対し、「世界中の核兵器保有国に、世界で唯一の被爆国として、核の恐ろしさを伝えてほしい。」というような内容の呼びかけがありました。本当にその通りだと思います。これだけ多くの国がある中で、日本はたった一つの被爆国で、その小さな日本でも当時を知る人は少なくなっています。当時の状況、恐怖を私達に伝えてくださる方々がいる内に、私達はそれを世界中に広げ、平和の大切さ、戦争の愚かさを伝えていかなければいけないと思いました。

また、その日は式典以外でも多くの事を観て、聴いてくる事が出来ました。

式典の後に行った平和記念資料館では、凄惨な当時の様子をもの語る物が沢山ありました。学校の図書室で観たものよりも、ずっとリアルで痛々しい被爆者の方が描いた絵、白黒ではあるものの、酷い火傷や傷のうかがえる写真、どれも胸を締め付けられるものでした。中には当時十二才から十四才の子達が被爆し、その時に残った、服だったとは思えない程ぼろぼろに破れ、汚れた布や色あせてしまったお守りもあり、自分よりほんの少ししか変わらない年でどれだけの恐怖を味わったかと思うと、今普通に生きていられる事の幸せを強く感じました。私はこの資料館を訪れて驚いた事がありました。それは、来館者の多数が外国の方だったという事です。まるで自分達の方が異国に来たように感じる程、多くの外人さんであふれていました。そしてその誰もが、展示されている絵や写真、当時の物などを真剣な表情で、静かに見つめていました。私はそれを観て世界よりまず先に、もっと日本人が戦争や原爆について知る事の方が大事なのかなと思いました。先程、世界の人に伝えなければいけないと言いましたが、その為には先ず、日本人が興味を持ち、伝えようという気持ちを持つ事が大切だと思います。だから私は、三日間で学んだ事を先生や友達、家族に教えて、その小さな第一歩になるような事が出来ればと思います。

そして、資料館の後に観た演劇では、当時の状況を、更に詳しく感じました。 特に演劇の中で多く使われていた「広島の時間はあの日から止まったままです。」という言葉が心に残っています。一つの家族が劇中で描かれていましたが、原爆や放射線による影響で壊れていってしまうのを見て、涙が出ました。今まで協力して生きてきていた兄妹の仲にヒビが入っていくのは、私自身、幼い妹と弟がいるので重ねて考えてしまい、観ているだけで本当に辛かったです。戦争は本当にいいものを何も生まないと思いました。

私は今回、実際に広島へ行くまで、原爆の事は教科書や本の絵、写真でしか知らず、それで知ったような気になっていました。でも、絵も写真も、原爆ドームも、人々の言葉も実際に観て聴かなければ全く分からない事の方がずっと多くて、思っていたよりもずっと学べる事がありました。あんな経験が出来る事は、中々ないと思います。この貴重で大きな経験を無駄にしない為に、三日間で学んだ事、感じた事を決して忘れない様にしたいです。具体的に出来る事は少ないかもしれませんが、頭の隅に置いておき、今までより平和への意識を高める事位なら出来ると思います。原爆や意味のない戦争で、私達自身が、そして世界中の人が傷つく事がないよう、当時を知らない私達が伝えていく事に意味があると私は思うので、そんな些細なことからでも自分を変えていきたいです。

 

元安川で灯篭流し(送り火)を見学しました。

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最終更新日:2019年09月26日